人的資本経営と開示入門
<目次>
・持続的な企業価値の向上と人的資本
・人的資本経営の実践
・人的資本経営の最初の一歩
・価値創造ストーリーの検討
・「As is - To be ギャップ」の定量把握のための取組
・人的資本の開示
・人的資本に関する開示事項
・統合報告書等による人的資本の開示例
・有価証券報告書における人的資本開示
・サステナビリティ開示基準の設定
・サステナビリティ開示基準と人的資本
・サステナビリティ開示基準を適用して人的資本を開示しなければならない場合
・SASBスタンダード
・有価証券報告書(SSBJ基準)における具体的な開示項目
・サステナビリティ開示基準を踏まえた有価証券報告書における人的資本の開示
・有価証券報告書(SSBJ基準)における具体的な検討イメージ
・有価証券報告書における人的資本の開示例
・おわりに
■持続的な企業価値の向上と人的資本
従来、人に投じる資金は「費用」として捉えられることが多く、そうした消費的思考から、同質的な人材を切れ目なく供給することが人事の役割であった。しかし、VUCA(ブーカ)の時代においては、同質性よりもイノベーションの創出を誘発する多様性や将来の企業のビジョンにマッチさせるように人材を磨き上げていく必要性が高まっている。
また、企業価値を持続的に向上させるためにはイノベーションが必要であり、イノベーションを創出するのは「人」である。このイノベーションの創出をリードする人材を育成・発掘・獲得することこそが、VUCAの時代において、企業価値を持続的に向上させるための資本となる。こうして、持続的な企業価値の向上のために磨き上げた人材に関する社内環境は、付加価値を創造する源泉となり、それは人的資本と呼ばれる。
今回は、このように企業価値の向上に欠かせない人的資本について、人的資本経営及び開示の取り組み方を中心に説明する。
■人的資本経営の実践
まず、人的資本経営を検討するうえで参考となるのが、「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書(通称:人材版伊藤レポート)」である。人材版伊藤レポートによると、人材戦略は①経営戦略と人材戦略の連動、②As is(現在) - To be(あるべき)ギャップの定量把握、③人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着、といった3つの視点が求められる。さらに、このなかで特に重要なのは①経営戦略と人材戦略の連動であると述べている。また、人材戦略の具体的内容として、①動的な人材ポートフォリオ、②知・経験のD&I、③リスキル・学び直し、④従業員エンゲージメント、⑤時間や場所にとらわれない働き方、という5つの共通要素を踏まえて、企業価値の向上につながる人材戦略を策定・実行することが求められると論じている。
上記の3つの視点・5つの共通要素という枠組みに基づいて、人的資本経営を具体化させようとする際に、実行に移すべき取組、及びその取組を進める上でのポイントや有効となる工夫を示すものとして、「人材版伊藤レポート2.0」という指針がある。人的資本経営を実践する際には、人材版伊藤レポートで基本的な概念を理解し、人材版伊藤レポート2.0で紹介されている取組を自社に当てはめていくとどうなるのかという視点で進めていくと取り組みやすい。なお、人材版伊藤レポート2.0をチェックリスト的に全て検討する必要はなく、自社の状況にあったものを検討すればよい。
(図の引用:人材版伊藤レポート P32)
(参考)
人材版伊藤レポート
https://www.meti.go.jp/shingikai/economy/kigyo_kachi_kojo/pdf/20200930_1.pdf
人材版伊藤レポート2.0
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf
■人的資本経営の最初の一歩
人的資本経営を行ううえでもっとも重要なものは、企業価値を向上させるための経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するかである。経営戦略と人材戦略を連動させるためには、まず中期ないし中長期経営計画で策定した経営目標を実現するために必要な人材像を洗い出すことである。その際、経営陣の一員として人材戦略の策定と実行を担う責任者であるCHRO等を設置して、CEO・CFO等の経営陣と議論をしながら経営目標にマッチした人材戦略を策定することが重要である。経営会議等の経営戦略を議論する場に人材に関する責任者がいなければ人的資本経営はままならない。
■価値創造ストーリーの検討
人材戦略の策定に際しては、将来の企業価値向上にどう結びついていくのかをストーリーとして語れるか、が大事である。したがって、他社の多くが実施しているからという理由ではなく、なぜその施策を実施すると将来の企業価値が上がるのかを自社の状況、環境及び経営戦略等に照らして考える必要がある。具体的な検討に際しては、下記の図が参考となる。
(図の引用:人的資本可視化指針 P6)
また、経済産業省が公表している「価値協創ガイダンス」も人材戦略の策定に役立つ。本ガイダンスは、投資家に伝えるべき情報を体系的・統合的に整理し、情報開示や投資家との対話の質を高めるためのフレームワークである。本ガイダンスの特徴として、企業の価値観まで遡り、そこから長期戦略、足下の実行戦略、戦略の効果を測定するKPIの設定・評価及びそれらを下支えするガバナンスを有機的に整理し、企業の価値創造ストーリーを社内外で共有することをサポートする。この価値協創ガイダンスに沿って、自社の経営戦略と人的資本への投資や人材戦略の結びつきを確認しながら進めていくことで、経営戦略と連動した人材戦略が策定しやすくなる。
<コラム>自社固有の価値創造ストーリーと人材戦略の整合性
最適な価値創造ストーリーは、企業ごとに異なる。なぜなら、企業にはそれぞれの企業理念や企業文化が存在するからである。したがって、別の企業の価値創造ストーリーをそのまま自社に持ってきても、企業理念や企業文化の相違等から、これまでの在り方と矛盾が生じ社内にフィットしない可能性がある。
価値創造ストーリーを策定するうえで、まずは、自社の存在意義を支えてきた企業理念や企業文化の本質的な部分を抽出し、自社固有の「価値観」を整理することが重要である。そして、自社固有の価値観からどのような社会課題を解決すべきなのか、自社における「重要課題」として特定していく。
人材戦略も、このような自社固有の価値創造ストーリーと密接に結びつけて検討することが不可欠である。自社のパーパスや価値観と整合した人材戦略を構築することで、組織全体の一体感が高まり、従業員のモチベーション向上につながる。また、企業文化と整合したKPIや評価基準を設定することで、効果的なインセンティブ制度を構築でき、戦略の実行がよりスムーズになる。
一方で、自社のパーパスや価値観と乖離した人材戦略を推進すると、組織内の混乱や対立を招く恐れがある。さらに、企業文化と整合しない戦略は形骸化し、真の変革につながらないリスクもある。
したがって、人材戦略を検討する際は、常に自社のパーパスや価値観を念頭に置き、企業文化との整合性を確認しながら経営戦略と結びつけることが重要である。このアプローチにより、自社の目指すべき方向やパーパスと矛盾せず、従業員のモチベーションを高め、持続可能な形で経営戦略にマッチした人材戦略を推進することが可能となる。
(図の引用:経済産業省ホームページ)
https://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/kigyoukaikei/ESGguidance.html
(参考)
人的資本可視化指針
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20220830shiryou1.pdf
価値協創ガイダンス2.0
https://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/kigyoukaikei/Guidance2.0.pdf
価値協創ガイダンス解説資料
https://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/kigyoukaikei/Guidance_Supplement_Japanese.pdf
■「As is - To be ギャップ」の定量把握のための取組
人的資本経営を実践するためは、将来の企業価値向上を目指す経営戦略の実現に向けた人材戦略を策定するだけでなく、策定した人材戦略を実現するための仕組みが重要になってくる。つまりAs is - To be ギャップを定量把握し、策定した人材戦略の定着度・進捗度を可視化する必要がある。可視化を行うことにより人材戦略の進捗度、改善点が明確になり、人材戦略を実現させるための足掛かりとなる。
定量把握は人材戦略の課題ごとのKPIの定量把握だけなく、当該KPIを実現するための具体的な目標・活動まで行うことがより有効である。たとえば、人材戦略(KPI)を実現するためのコンピテンシーの設定、設定したコンピテンシーの組織への組み込み、組み込んだコンピテンシーの定期的な評価・是正活動といったコンピテンシー・マネジメントの実施が考えられる。すなわち、KPIを達成するための具体的要件をコンピテンシーとして定め、これを採用及び従業員の研修・トレーニングの策定の指針とし、人事評価項目としてコンピテンシーを用いる。このようなコンピテンシー・マネジメントを上手に活用することにより経営戦略を組織の末端まで浸透させることができる。
上記は人材戦略の実現という視点での定量把握であるが、人材投資に対するリターン等の投資対効果を定量的に把握し、ステークホルダーに開示・発信することも有用である。ただし、リターンには人材投資以外の効果も多分に含まれる可能性があるため、人材投資に関する投資対効果を測定することは非常に難しい。実際の事例で、新規事業に係る人件費やグループ会社間職種変更異動した社員の1年目の人件費などを人的資本投資額、新規事業から生じた限界利益をリターン額とし、n期から5年分の人的資本投資額とn期から10年分のリターン額を比較する投資対効果の定量把握(例:人的資本投資額300億円、リターン額500億円)があった。この事例においても、新規事業に関わった人たちがいたからこそ生まれた新たな限界利益であるから人的資本投資の効果であるという見方もあれば、一方で、新規事業の限界利益全体が人的資本投資の効果なのか、新規事業に関連した人件費全体を人的資本投資と定義することが適切かどうかについては議論の余地があるかもしれない。ただいずれにしても、イノベーションを生み出す原動力となる「人」に注目した経営は、将来の企業価値の向上を期待させ、投資家の評価につながる。しかし、こうした企業行動の多くは投資家が直接観察をすることができないため、企業側から積極的に開示を行うことで、社会的な評価を得るきっかけをつくることができる。
■人的資本の開示
人的資本開示の基礎を固めたら、自社のホームページや統合報告書等で開示を行う。なお、人的資本開示は発展途上にあり、投資家も完璧な開示を求めていないため、ある程度形になったら積極的に開示を始めて、投資家との対話と通じて磨き上げていくプロセスが望ましい。
(図の引用:人的資本可視化指針 P7)
■人的資本に関する開示事項
具体的な開示事項を検討する際には、人的資本可視化指針のP20~25における下記の表が参考になる。ただし、下記の開示事項はあくまで例示であり、普遍的な事項になるため、他社との比較可能性は高まるものの、必ずしも自社の成長ストーリーと結びつくものではない。人材戦略は自社の状況、環境及び経営戦略等に合わせて、自社独自のものとして策定されるものであるから、下記以外の自社独自の目標や指標も検討し、自社の成長ストーリーに結び付けて示すことが重要である。
人材育成に関連する開示事項 |
研修時間 |
研修費用 |
|
パフォーマンスとキャリア開発につき定期的なレビューを受けている従業員の割合 |
|
研修参加率 |
|
複数分野の研修受講率 |
|
リーダーシップの育成 |
|
研修と人材開発の効果 |
|
人材確保・定着の取組の説明 |
|
スキル向上プログラムの種類・対象等 |
|
従業員エンゲージメントに関連する開示事項 |
従業員エンゲージメント |
流動性に関連する開示事項 |
離職率 |
定着率 |
|
新規雇用の総数・比率 |
|
離職の総数 |
|
採用・離職コスト |
|
人材確保・定着の取組の説明 |
|
移行支援プログラム・キャリア終了マネジメント |
|
後継者有効率 |
|
後継者カバー率 |
|
後継者準備率 |
|
求人ポジションの採用充足に必要な期間 |
|
ダイバーシティに関連する開示事項 |
属性別の従業員・経営層の比率 |
男女間の給与の差 |
|
正社員・非正規社員等の福利厚生の差 |
|
最高報酬額支給者が受け取る年間報酬額のシェア等 |
|
育児休業等の後の復職率・定着率 |
|
男女別家族関連休業取得従業員比率 |
|
男女別育児休業取得員従業数 |
|
男女間賃金格差を是正するために事業者が講じた措置 |
|
コンプライアンス・ 労働慣行に関連する開示事項 |
人権レビュー等の対象となった事業(所)の総数・割合 |
深刻な人権問題の件数 |
|
差別事例の件数・対応措置 |
|
団体労働協約の対象となる従業員の割合 |
|
業務停止件数 |
|
コンプライアンスや人権等の研修を受けた従業員割合 |
|
苦情の件数 |
|
児童労働・強制労働に関する説明 |
|
結社の自由や団体交渉の権利等に関する説明 |
|
懲戒処分の件数と種類 |
|
サプライチェーンにおける社会的リスク等の説明 |
■統合報告書等による人的資本の開示例
経済産業省が人材版伊藤レポート2.0の実践事例集を公表している。人的資本開示を始めるにあたって先行事例を参照すると開示プロセスがイメージしやすくなる。ただし、他社の人的資本開示は他社の置かれている状況下を前提としているため、自社にそのまま当てはめることはできないことに留意が必要である。
(参考)
人材版伊藤レポート2.0 実践事例集
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0_cases.pdf
■有価証券報告書における人的資本開示
2023年3月期の有価証券報告書より、「サステナビリティに関する考え方及び取組」の開示項目が新設された。なお、この新設に合わせて、「人材の育成に関する方針及び社内環境整備に関する方針」と「当該方針に関する指標の内容、指標の目標及び指標の実績」の2つの事項を開示することが必須とされた。なお、現状は人的資本開示に関する作成基準がないため、簡単な方針だけを記載する企業や人に関わる様々な方針・人的投資の開示を行っている企業など多様な開示が行われている。
(参考)
企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令
https://www.fsa.go.jp/news/r4/sonota/20230131/03.pdf
■サステナビリティ開示基準の設定
人的資本も含め非財務情報の有用性が高まっている一方、各社の開示の質や量が異なっていると企業間比較性を損なう。そこでサステナビリティ情報に関する開示基準を設定する流れが世界的に進んでいる。日本においても、サステナビリティ基準委員会(以下、「SSBJ」という)がサステナビリティ開示基準(以下、「SSBJ基準」という)を作成しており、将来的にはSSBJ基準に従って開示を行うことになる。したがって、有価証券報告書における人的資本開示を検討する際には、SSBJ基準も意識して準備を進めることが効率的である。
2024年6月現在、SSBJ基準は公開草案の段階であるが、その適用時期について、時価総額3兆円以上のプライム企業は2027年3月期から、時価総額1兆位円以上のプライム企業は2028年3月期から、時価総額5,000億円以上のプライム企業は2029年3月期から適用し、時価総額5,000億円未満のプライム企業は順次拡大する案が金融庁より示された。当面は大企業中心の開示とみられるが、任意適用が促進されるため、それ以外の企業についてもサステナビリティ関連の情報開示を検討することが望まれる。
(図の引用:第3回 金融審議会 サステナビリティ情報の開示と保証のあり方に関するワーキング・グループ 事務局説明資料 P4)
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/sustainability_disclose_wg/shiryou/20240628/01.pdf
■サステナビリティ開示基準と人的資本
SSBJ基準は、基本的な事項を定めたユニバーサル基準とサステナビリティ関連のリスク及び機会に関して開示すべき事項を定めたテーマ別基準に分かれている。テーマ基準は一般開示基準(1号)と気候関連開示基準(2号)がある。現時点では、人的資本に関するテーマ別基準はないため、一般開示基準(1号)に照らして検討する必要がある。なお、ISSBは人的資本に関連するリスク及び機会に関するリサーチ・プロジェクトを開始するため、将来的に人的資本に関してもテーマ別基準が設けられる可能性がある。
(参考)
ISSBが自然及び人的資本に関連するリスク及び機会に関するリサーチ・プロジェクトを開始
https://www.ssb-j.jp/jp/activity/press_release_ssbj/y2024/2024-0423.html
■サステナビリティ開示基準を適用して人的資本を開示しなければならない場合
SSBJ基準で開示が求められているのは、「サステナビリティ関連のリスク及び機会」に関する情報の開示である。ここで、サステナビリティ関連のリスク及び機会とは、企業がキャッシュ・フローを生み出すためにバリュー・チェーンを通じて資源及び関係に依存し、それらの資源及び関係を用いて行われる企業の活動や活動の結果として生じるアウトプットが企業の依存する資源及び関係に影響(それらの資源及び関係の維持、再生及び発展又は劣化及び枯渇等)を与えることにより生じるサステナビリティ関連のリスク及び機会である(ユニバーサル基準BC61項)。
例えば、企業のビジネス・モデルが、人に依存している場合、企業は、当該資源の質、利用可能性に影響を与えると同時に、当該資源から影響を受ける可能性がある。具体的には、当該資源の劣化又は枯渇(企業自身の活動及びその他の要因から生じるものを含む。)は、企業の事業に混乱をもたらすリスクを生み出し、ビジネス・モデル又は戦略に影響を与える可能性があり、また、究極的には、財務業績及び財政状態に不利な影響を与える可能性がある。一方、当該資源の再生及び維持(企業自身の活動及びその他の要因から生じるものを含む。)は、企業に有利な影響を与える可能性がある(ユニバーサル基準BC62項を「人」に置き換え)。したがって、上記の例示に該当するような場合は、サステナビリティ開示基準を適用して人的資本を開示しなければならない。
また、サステナビリティ関連財務開示は、企業の見通しに影響を与えると合理的に見込み得るサステナビリティ関連のリスク及び機会に関して、重要性がある情報の開示が求められているため(ユニバーサル基準50項)、重要性がない場合には開示を行う必要はないが、人手不足や能力の劣化が起こると企業のキャッシュ・フローに影響を与えることも多いと思われるため、人的資本に関する何らかの開示が必要になると想定される。
なお、SSBJ基準を適用する最初の年次報告期間については、「気候基準」に準拠して気候関連のリスク及び機会のみについての情報を開示することができるため(ユニバーサル基準97項)、適用初年度は人的資本に関連する開示を省略することができる。
■SASBスタンダード
企業の見通しに影響を与えると合理的に見込み得るサステナビリティ関連のリスク及び機会を識別するにあたり、SSBJ基準を適用しなければならないが(ユニバーサル基準44項)、これ以外にも、IFRS 財団が公表する「SASBスタンダード」(2023年12月最終改正)における開示トピックを参照し、その適用可能性を考慮しなければならない。SASB スタンダードには、業種ごとに人的資本に関連するトピックあるため、SSBJ基準に準拠したサステナビリティ開示を行うにあたり、参照し、その適用可能性を考慮する必要がある。なお、適用可能性を考慮した結果、適用しないと結論づけても問題ない(ユニバーサル基準45項)。
SASBスタンダードは下記のURLからダウンロードできる。なお、日本語を選択してダウンロードをすることもできるが、その場合、最新版でない可能性がある。イメージを確認したい場合は、下記の人的資本可視化指針の付録資料が参考になる。
(参考)
SASB スタンダード ダウンロードページ
https://sasb.ifrs.org/standards/download/
人的資本可視化指針の付録資料
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20220830shiryou2.pdf
■サステナビリティ開示基準を踏まえた有価証券報告書における人的資本の開示
SSBJ基準に従って有価証券報告書に人的資本を開示する場合、コア・コンテンツと呼ばわれる4つの構成要素すなわち、①ガバナンス、②戦略、③リスク管理、④指標及び目標に関する情報を開示しなければならない(一般開示基準7項)。
この4つの構成要素の枠組みは、2023年3月期の有価証券報告書よりすでに導入されている。さらに人的資本に関しては、企業内容等の開示に関する内閣府令により、②戦略の箇所に、人材の育成に関する方針及び社内環境整備に関する方針、④指標及び目標の箇所に、当該方針に関する指標の内容、指標の目標及び指標の実績の開示が求められているところである。
しかし、SSBJ基準が適用されると、「企業のキャッシュ・フロー、当該企業のファイナンスへのアクセス又は資本コストに影響を与えると合理的に見込み得る、サステナビリティ関連のリスク及び機会」に関連した開示が行われることになるため(ユニバーサル基準4項(5))、有価証券報告書において全ての人的資本を開示している場合(統合報告書からの流用等)、上記のリスク及び機会にフォーカスした開示内容に修正を行う可能性について留意しなければならない。
■有価証券報告書(SSBJ基準)における具体的な開示項目
「人」から生じるサステナビリティ関連のリスク及び機会について、主な以下の事項を記載する。なお、①ガバナンス及び③リスク管理については他のサステナビリティ関連開示と共通になることが多いと想定されるため、ここでは省略する。
②戦略
- 影響が生じると合理的に見込み得る時間軸(短期、中期又は長期)
- ビジネス・モデル及びバリュー・チェーンに与えている現在の影響と予想される将来の影響
- 現在の財務的影響及び予想される財務的影響
- 企業の戦略及び意思決定においてどのように対応してきたか、今後対応する計画であるか
- 過去の報告期間に開示した計画に対する進捗
- 当該リスクから生じる不確実性に対応する企業の能力(レジリエンス)に関する定性的評価
④指標及び目標
- 当該リスク又は機会をモニタリングするために用いている指標
- 当該リスク又は機会に関連する企業のパフォーマンスをモニタリングするために用いている指標
- 戦略的目標の達成に向けた進捗をモニタリングするために設定した目標
■有価証券報告書(SSBJ基準)における具体的な検討イメージ
ビジネス・モデルが「人」に依存している企業において、少子化の影響により将来の労働人口が減少し、事業のオペレーションに必要な人員が確保できなくなるリスクを識別した場合の検討イメージを記載する。なお、イメージしやすいようにシンプルにしていること及びこれ以外の視点からの検討もあることに留意が必要である。
②戦略
事業のオペレーションに必要な人員が確保できなくなるリスクがビジネス・モデル等に与えている現在の影響及び予想される将来の影響を検討する(財務的影響を含む)。
当該リスクに対応するための企業の対応を検討する。例えば、労働人口が少なくなるなかでも、従業員及び従業員の候補となる人から選ばれる企業となるため、女性が働きやすい環境、フレキシブルな働き方ができる環境、場所にとらわれない働き方などの施策を実行していくことや、人に依存しているビジネス・モデルを自動化やAIの活用により、少ない人でオペレーションできるように変えていくという施策も考えられる。後者の場合、人件費の圧縮により企業のキャッシュ・フローが改善する「機会」になる可能性もある。
当該リスクがもたらす将来の影響は不確実性があるため、企業の想定よりも大きな影響になる可能性もある。そうなった場合の企業の対応能力についても評価を行う必要がある。
④指標及び目標
当該リスクに対する指標として、従業員数や人員充足率等を設定する。
目標については、上記の戦略で検討した施策に関連するKPIを設定する。上記のケースでいえば、一例として、女性従業員比率、育休取得率、時短勤務取得率、リモートワークに関連する指標、自動化・AI投資額、労働生産性等がある。
■有価証券報告書における人的資本の開示例
金融庁は記述情報の開示の好事例集を公表しており、そのなかには人的資本に関するものも含まれている。人的資本開示を始めるにあたって先行事例を参照すると開示プロセスがイメージしやすくなる。ただし、他社の人的資本開示は他社の置かれている状況下を前提としているため、自社にそのまま当てはめることはできない。また、有価証券報告書における人的資本開示は、将来的にSSBJ基準の適用が想定されるが、現在の開示例の多くはSSBJ基準に準拠しているわけではないため留意が必要である。
(参考)
記述情報の開示の好事例集2023 「人的資本、多様性等」の開示例
https://www.fsa.go.jp/news/r5/singi/20240308/07.pdf
■おわりに
SSBJ基準適用後の有価証券報告書におけるサステナビリティ開示(人的資本を含む)は、従来の統合報告書で行われていた任意開示と異なり、制度開示となる。したがって、自社の良いところだけをアピールしたり、単に基本的な人事方針を開示したりする場ではなくなる。
開示の目的は、企業が不確実な将来に対してどのような予測をし、どのような準備を行っているのかを可視化し、投資家との建設的な対話に資することである。特に、VUCAの時代におけるイノベーションへの対応力を示すことが重要となる。足下の売上・利益のみしか見ていない企業と、将来の様々なリスク及び機会を想定して準備している企業とでは、事業の持続可能性(強靭性)に大きな差が生じるだろう。人的資本をはじめとするサステナビリティ開示の本質は、企業が将来の変化に対してどのように備え、対応する力を持っているかを明確に示すことにある。この過程で、企業は自社の人的資本の価値を可視化し、それが長期的な競争力の源泉であることを投資家に伝えることができる。こうした開示を通じて、企業と投資家の間で、持続可能な成長に向けたより深い理解と対話が促進されるのである。